大船から海を目指す。
先週金から月、火、水という逃避行。なんとか言い訳をして来週月曜に調整が目下の最優先事項だ。この週末以来の久々の巣脱出で吸った午後の豪徳寺の空気はまるで平和で、この先ずっとこの場所はこんな風に平和な空気に包まれて、世田谷線が走り続けるのかもしれないなあと、脳裏には中学生時代のサッカークラブの遠征で行ったであろう公園の穏やかな風景のようなものが浮かびながら、そんな生まれて初めて味わう感覚を得た。
この1.5年間ほどのぬるま湯に浸かり続けてきた日々を背景に考えれば当然の事、こうありたいという理想の「忙しい」姿を望めば望むほど「ぬるま湯」世界は手綱を強く引っ張ってくる。ただもうここまでくるまでもなくとうの昔からぬるま湯ナウはうんざりナウ、少し体を抜け出せばそこからの反動は早く、着替えようものならそれは素早く、駅へと走るスピードも全盛期を彷彿とさせる (いつの話だ)。とにかく過年度生である我が身の四月の平日の二日半を棒に振り、家と近所に居座っていた身体には、家を出て感じる午後の外の空気は、豪徳寺のものではあったが、なんとも緊張感に欠ける風当たりだった。家と家の外で空気が違うのは当たり前だが、これまで以上に私の体に触れる空気の差異を皮膚感覚で感じられた。そして今は神奈川県は鎌倉市行きの電車に揺られている。神奈川県と、しかしながら豪徳寺の空気もまた異物であろう。だからこその1.5年間であり、二日半なのだ。
このままずっと豪徳寺に骨を埋めるという選択肢を取る私がいるとするならばそれはどのような「私」だろうかという些細なる疑問を、この午後の日差しが夕時に変わる前にここに記しておきたいとそう思うのだ。
あれよあれよ、春真っ盛り。
大学図書館を17時に追い出され、
国立横浜森林公園を小一時間のビルディングトリップ。
総合研究棟の5階外階段から見えた、夕焼けに、
照らされた桜や緑。心を奪われる。
「見る」ことを恐れてはいけない。何も見えていなかったことを恥ずかしいと(少し)思っています。世界はいつでも動いていたのです。ちなみにサークルが嫌いなのは、それがホモソーシャルなコミュニティだからです。大学では同年代ばかりではなくて、もっといろいろな世代の人や異質な人たちと触れ合うべきだと思っています。「いま/ここ」という時に自由に動けないような生き方をしていると、惰性に流されて何も見ないで生きることになってしまいます。たとえ貧乏でも、孤独でも、自由にできる時間がある方がはるかに豊かなのではないかと思います。自分で自分の時間を縛りつけないで下さい。
四月四日四時四十四分四十四秒。
多分桜を見ていた気がする。
ある大学教授の言葉。
この大学生活に人生史上最大の期待と不安とを培養していきながら今後の春から
初夏までを、精一杯。
大学四回生、今一度の大学過年度へ向けて〜横須賀線各停逗子行車中
ある雪の降る新年の夜
あるよく晴れた平日の午後
思い思いのタイミングで
いつもの場所に
いつもの風景
予定外の予定と想定内の予定を正午過ぎからこなしたつもりで家路につき、二日ぶんの作り置きされたおかずにあり着いたのが午前零時前。そこからだらだらと夜食のような時間の遅い夕食を食べながらパソコンをいじり、ふと外をみると雪がしんしんと降っていた。ある小さな思いを胸に秘め立ち上がり、シャワーを浴びに行くのだ。ベッドが新調されてから備え付けの収納から下着や服をあらかじめ取り出しておくという最近身に付いた数少ない習慣をほんのわずかに得意げに思いながら服を脱ぎ、これまた二日ぶりに頭部を洗い、順に顔、体を洗い風呂場を出る。着替えてから小銭を手に取りそっと外に出る。思いの外、都会にしては積もっているとも言えない程度には積もっていた。通りには誰もいなかった。時刻は午前三時をまわっていた。駐車場の入り口の坂の道の上の雪にはこれまた当然ながら足跡一つない美しい平べったい真っ白。二つ、背中合わせになる自動販売機の裏側の遠い側の方にまわり、小銭を入れる。すると百円玉だけなぜか出てくる。よく見るとその銀貨は、どこかゲーム施設かなにかのゲーム用コインだった。じぶんでなければ諦めたくなるのではないかと思うほどに身体にはりつく寒さを通り過ぎ、急いで家の中へ戻り、再び銀貨を手に外へ。途中家の屋根の下で立ち止まって顔を上げてみた。雪は、風に揺られ、その都会の雪の、大きな、湿気を含んだその大きな雪の小さな塊たちは、幼少期から青年期までのこれまでの私自身の様々な思い出を運んでくれるようなものだと感じた。舞い踊り、風に揺られる雪は、思い出を思いの外幻想的に、その片鱗を私の想像の世界にちらつかせては消えさせた。無事に自動販売機との格闘を終えてマンションの門を過ぎ階段を上がりながら浮かんだ思考の内容は、この世は夢のようだ、この一連の、呆れるほどくだらないこの雪の夜の世界の片隅での出来事は、明らかに現実であり、そして夢のような一幕であったのだ。そう思い、筆をとった、という名の、親指をスマートフォンの液晶に走らせた。瞼が重い。無事に買った炭酸飲料を一気に飲み干しながら、こんな回想もまたしてみたいものだと、私は私に言い聞かせた。